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2020年10月の4件の記事

2020年10月25日 (日)

「そもそも無理のあった同一労働同一賃金」。そもそも、どう考えるか。

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そもそも無理のあった同一労働同一賃金(城繁幸)
https://www.j-cast.com/kaisha/2020/10/18396658.html
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目についたので、すこし感想です。
筆者は、いつも企業側の視点で、ズバズバと書いているから、なかなか面白いのだが、労働者のひとりである私には、笑えない事柄も多い。

判決は「実質的に正社員と同じなら待遇格差は不合理である」とも述べている。今後、企業人事は「正社員と同じ」と言われないよう、業務内容はもちろん異動や人材育成まで含めて正社員と非正規の棲み分けを徹底するはずだ。

長期間雇用しすぎると実質的に正社員と同じだと突っ込まれる恐れがあるため、雇用期間はより短く細切れになるだろう(すでに5年で無期転換というルールもある)。業務内容もより付加価値が低く、短期で人を入れ替えても影響のない業務に限定されるはずだ。

格差を是正するための規制が、格差をより強固なものにしてしまったというわけだ。

私は、短期で入れ替えるを肯定する。
長期間の勤務が続いたのに、突然、契約を切られることのほうが辛いと思うからだ。しかも、それが高齢になってからだと、身動きが取れなくなる。
現状の日本では、非正規労働者には年功序列や終身雇用が保障されていないと思うので、非正規労働者は企業に依存しないほうがいい。(もっとも、正社員も年功序列や終身雇用が保障されているとは思えないが)
使い捨てられるくらいなら、ノウハウを身に付けて、さっさと他所に移ったほうがいい。

契約社員やパートは、その求人内容を見ても明らかなように「何の仕事をして時給をいくら受け取るか」が明示された職務給だ。

これに対し、日本企業で働く正社員のほとんどは「会社に言われた業務は何でも担当し、全国転勤も残業もこなしながら毎年少しずつ昇給していく賃金制度」で働いている。
だから、たとえば同じ職場にほとんど同じ仕事をしつつ契約社員の3倍の時給を受け取る正社員のオジサンがいたとしても、二人の時給を平準化しろとは言えない。オジサンはきっとこういって反論するだろう。

「自分は入社以来ずっと会社のために何でもやってきて、今はたまたまこの事務の仕事をしているだけです。給料が高いのは過去の年功に対するご褒美だから当然です」

今回は賞与や退職金がテーマだが、構造的な問題は同じである。判決もごちゃごちゃ書いてあるものの、要するに「一時的に同じ業務をこなすことがあっても、異動などの状況が異なるから不合理とは言えない」と示している。現状の枠組みを維持したままではこれが精いっぱいということだ。

日本はメンバーシップ型と言われている。欧米はジョブ型と言われている。
なぜ、そうなったかと言えば、日本では社員の平等が求められ、欧米では職業の平等が求められたからだ(らしい)。
これは、日本や欧米の労働者が、経営者による恣意的な評価を嫌った結果として、出来上がった仕組みだ(らしい)。
恣意的な評価とは、必ずしも実力で評価されるのではなく、経営者が自分の好みで人事や給与を決定することだ。

明るい兆しがないわけでもない。コロナ禍に伴うリモートワーク推進で、従来の年功賃金からジョブ化(職務給化)にシフトする企業が相次いでいる。決して交わることのなかった2つの賃金制度が、コロナ対応をきっかけに交わり始めているのだ。

こうなると「過去の年功に対するご褒美だから」という言い訳は通用しなくなるし、企業側も生産性の低い正社員の賃金を減らして、優秀な非正規雇用に報いる努力をするだろう。それが10年後になるか20年後になるかはわからないが、いわゆる「メンバーシップ型雇用」なるものが完全に消滅した後には、雇用形態にかかわらず、業務内容に応じて賃金が決まるクリアな社会が実現するはずだ。

「業務内容に応じて賃金が決まるクリアな社会」とあるが、そうはならない。経営者による恣意的な評価が跋扈する未来しかない。
もしも、そんなに簡単にクリアな社会になるのなら、ブラック企業のような騒動は起こらなかった。

「そもそも無理のあった同一労働同一賃金」という意見は、もっともな話しである。
しかし、労働者がそれを認めてしまうと、恣意的な評価が蔓延することになる。だから、労働者は評価基準を明確にしなければならない。公平を求めなければならない。
そうしなければ、ブラック企業の問題のように、うつや過労死が蔓延するだろう。
業務内容に応じて評価すると、評価基準が曖昧になる。だから、評価基準を明確にするために、同一労働同一賃金、もしくは、年功序列という、基準が定められた。労働者は、そこを勘違いしてはならない。

もりかけ騒動における「忖度」というキーワードは、記憶に新しいと思う。
そして、もりかけ騒動に於いては、上の者の顔色を窺うことであった。その結果、何が起きたか。

最後に少し蛇足です。
格差の拡大や二極化と言われ、中間層が消滅している。
結果として、少子化という社会問題が発生しているわけだが、少子化による影響は、移民問題という新たな社会問題につながる。
日本人の割合が減れば、国体に影響するし、移民の割合で中国人や韓国人が多ければ、国家間の問題に直結する。
国体が破壊されれば、それは天皇制の破壊につながるだろう。(ちなみに、私は国体や天皇制をよく分かっていない人間です)

日頃から、保守の人達の、ご立派な記事を見て「ごもっとも」と思ってしまうことも多いのだが、保守の人達は、国体が破壊されることをどう思っているのだろうか。
共産党が天皇制を破壊するよりも、もっと確実に少子化による天皇制の破壊が進んでいる。
誰の思惑か分からないが、例えば、グローバリズムやエニウェア族と呼ばれる人達には、国体や文化などは邪魔なのかもしれない。
保守の人達は、一体、何を応援しているのだろうか。

これは、生活保護や貧困層でも同じことが言える。
よく生活保護や貧困層を批判している人達がいるが、普通に生活できなければ、それが少子化につながることは、想像が付く。そして、始めは貧困層が否定されるが、その貧困層が居なくなれば、次は中間層が否定される。もっとも、その中間層もすでに消滅しているが。。。

よく覚えていないのだが、最近、ネットでひろゆき氏が「肉屋を応援する豚」と皮肉を言っている記事を見かけた。
ちゃんと自分の頭で考えないと、いつの間にか、他人に利用されていることもあるのだろう。怖いなぁ。

死にたくなければ、死ぬほど考えるしかない。

「飛ばねぇ豚は、ただの豚だ」(紅の豚)

(*´ω`*)モキュ

 

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2020年10月11日 (日)

「スガノミクスでも絶対に「経済成長」は起きない」。ふむ、如何ともし難い。

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スガノミクスでも絶対に「経済成長」は起きない
そもそも「経済成長」って何のことなのだろうか
https://toyokeizai.net/articles/-/379099
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最近、友人から携帯料金を下げる政策について、どう思うか質問された。
私は、関心が無いと答え、更に、効果が無いのではないかと答えた。
そして、どうすればいいか聞かれたが、答えが出なかった。
う~ん。考えよう。
(※.私も友人も、どこにでもいる平凡な日本人です。むしろ平凡以下の日本人です)

実は「アベノミクスは大成功だった」と評価する人たちも、「第3の矢」である成長戦略については「達成できなかった」とほぼ全員が認めている。だが、楽観的な彼らはスガノミクスの規制緩和に期待し、「これでイノベーション(技術革新)が起き、経済成長が起きる」と期待している。

 絶対にない。また、経済成長は決して起きない。

なぜか。それは経済成長とは、バブルのことだったからである。「『3つのバブル』が崩壊する瞬間が近づいている」でも書いたが、世界のバブルはこれから崩壊する。それが2つのバブルの崩壊か、3つなのかはわからない。だが今後は経済成長(そして経済成長と人々が勘違いしていたもの)は絶対に起きないのである。

面白い記事だと思った。よく分かる。

イノベーションを提唱したのは、20世紀初頭から中盤にかけて大活躍した経済学者のヨーゼフ・シュンペーターということになっている。雑に言えば、彼は有名な「創造的破壊」によって、既存の大企業などの既得権益となっている産業構造を壊し、独占力を壊し、そこに企業家(起業家ではない)が参入し、「新結合」(すでにあるものの新しい組み合わせ)で新しい産業構造を作りこれが経済発展をもたらす、と主張した。現代では、これを勝手にイノベーションと呼んでおり、これが経済成長をもたらすことになっている。

確かにシュンペーターは、正しい。だがその威を借りて、イノベーションや起業家を礼賛している現代の人々は間違っている。なぜなら、現在起きているイノベーションのほとんどは、産業構造を破壊し、新しい価値を人々にもたらしているのではないからだ。いわば企業覇権の交代を目指し、新しい独占構造を作り上げ「利益」(経済学的には独占的利潤、余剰利潤、レント、正当な利潤を超えた利潤のこと)を貪ろうとしているのである。響きのよい言葉のように聞こえるが「プラットフォームビジネス」などはすべてそうだし、ITの覇者のほとんどはこれだ。

なるほどなぁ~と思う。
素人である私の考えは以下のようである。

イノベーションが起きるときは、ブレイクスルーが起きていると思う。
逆に政府が実施している規制緩和は、ブレイクスルーという前提が無いと思っている。
ブレイクスルーが無いのに規制緩和しているから、その産業で問題が発生するのだと思う。
例えば、高速バス事故がそうだと思う。

イノベーションとは、起こるべくして起きると思っている。
しかし、政府の規制緩和は、一部の人の意見をもとに実施しているため、恣意的な行為に見える。
ブレイクスルーという前提が無いのに、恣意的に規制緩和が推し進められていると思っている。
(もちろん、良い意味での規制緩和があるので、すべての規制緩和を否定しない。あくまで、恣意的な規制緩和には問題があるということ)

ブレイクスルーとは何か。
例えば、写真のフィルムが、デジカメによって、需要が無くなると言われていた。実際に、フィルムが不要になったのだが、その当時のフィルム会社の社員は、信じていなかったという話しがある。
つまり、ブレイクスルーによって写真のフィルムに対する状況が変わったわけだ。
カメラの利用者にとっては、デジカメにより利便性が高くなったので、良かったことになる。

派遣労働の規制緩和は、どうだっただろうか。
ブレイクスルーが無いのに、経済界の要望によって規制緩和が進んだ。その結果が、現状の日本である。
部分最適化を実施して、全体最適化を疎かにした。視野狭窄である。技術革新が無いのに、実施したため、社会問題になっただけである。

経済政策を考えるときの、ひとつの考え方として、ブレイクスルーがあると思う。

トヨタが何年も前から、将来に対する危機感を言っている。
最初は、よく分からなかったが、欧州が、電気自動車への移行を進めている。ガソリン車から電気自動車へのシフト(代替手段)が進むのだろう。
これは写真のフィルムが無くなるのと同じような現象だと思う。だから、トヨタが危機感を持っているのだろう。
電気自動車のブレイクスルーが整ったのだろう。
しかし、悲しいかな水素自動車へのブレイクスルーは、まだ整っていないように思える。仮に技術的な問題をクリアしていたとしても、アーリーアダプターからアーリーマジョリティに移行するとは思えない。
本来なら、政府は、自動車業界に対して、イニシアチブを取れるように、電気自動車においてイノベーションが起きるように支えるべきだ。しかし、どうにもエコカー減税とか訳分からないことを言っている。トヨタが孤軍奮闘を強いられるのも分かる気がする。
電気自動車へのブレイクスルーは起きるべきして起こるだろうから、それに抗っても仕方がないと思う。電気自動車のブレイクスルーに対して、どれだけのイノベーションを起こせるかが、イニシアチブを取るための鍵になるのではないか。(もちろん、私などには具体的なアイデアは分かりません)

過去を振り返ると、コモディティ化が起きて、白物家電が凋落した。このコモディティ化もブレイクスルーと見做すことができると思う。このような代替手段によって、ブレイクスルーが起きるときが、ターニングポイントだと思う。
テレビ業界は、斜陽産業と言われている。これも代替手段によって、別の何かに置き換わろうとしている。
また、スマホや電子書籍によって、書店が減ってきている。
ブレイクスルーによって、産業がシフトするのは仕方がないが、何もしなければ、写真のフィルムのように消えていくだけだ。ただ変わるのではなく、経済政策によって、どう変わるかが問われているのではないか。

まず考えるのは、斜陽産業を、どうするか考えるべきだろう。
その中に、マスメディアと政治があると思っている。
現状の政治を見ていると、凋落の一途のように思う。なぜなら、日本が沈んでいるからだ、日本が沈むこと自体が、政治の凋落を表している。
例えば、総論は賛成なのに、各論になると反対ばかりになるという状況をよく見かける。取り敢えず、政権は任せるが、各論になると色々な思惑や信用が無いことから反対ばかりの状況になっているのではないか。
政治とマスメディアは、変わるためのブレイクスルーが整っていると思う。変わらなければ、写真のフィルムと同じように日本が消えるだけである。

菅政権が、行政改革を訴えている。現状の行政は、斜陽産業だろうか。私には、そうは思えない。
もちろん、IT化の遅れはあると思う。しかし、行政のIT化を進めるための、ブレイクスルーは揃っていないと思う。だから、実施するとしても時間がかかるだろう。
現状の行政改革は、恣意的な規制緩和と同類だと思う。そうだとすれば、結果は派遣労働と同じように、焼け野原になるのではないか。
今、婚姻届からハンコを無くすというニュースが流れていた。しかし、重要なのはハンコを無くすことではなくIT化ではないのか。
また、人生のなかで、婚姻届をどれだけ使うのか。頻度を考えれば、優先すべき事項ではないだろう。
どうにも昭和のおっさんの発想に思える。ITとはインフォメーションテクノロジーである。つまり情報技術だ。どうにも抽象的な情報よりも、物体的なイメージで捉えている節がある。
ついでに書くと、行政のIT化の名のもとに、どさくさ紛れで行政改革を断行しているのには、呆れ果てる。

素人ながらに私は、自動車産業、マスメディア、電子書籍、電子通貨、セキュリティ、エネルギー産業、政治へのテコ入れが重要だと思う。

問題は、ブレイクスルーが起きて、産業が変わるときに、従前のビジネスモデルが通用しなくなることだ。
ビジネスモデルが変われば、利益率も変わる。しかし、日本には、年功序列と終身雇用がある。
年功序列と終身雇用があるため、従前のビジネスモデルに固執しなければならない。なぜなら、利益を確保できなくなるからだ。
日本型雇用は、型に嵌まれば強いと思うが、変化には鈍重である。そして、滅私奉公を前提とした雇用システムだから、これを変えるには、それなりの時間を要する。だから、日本は既存のビジネスモデルに固執して、手遅れになっているのだろう。

私は、社会民主主義に近づけば良いと思っているのだが、ネットを見ていると資本主義を信奉している人達が多い。
技術革新がなく、パラダイム・シフトもないのに、規制緩和という名のもとに、特定の産業が狙われる。そこに市場原理はあるのか。
市場原理を考えれば、斜陽産業やブレイクスルーが起きるであろう産業をターゲットにするべきだろう。
資本主義を信奉している人達は、市場原理を無視したような規制緩和を、どう考えているのだろうか。

繰り返して書くが、日本の凋落を招いている政治は、斜陽産業と言うのに等しい。そんな政治に対して、テコ入れするのは、どの規制緩和の政策よりも優先度が高いはずだ。

(素人が、憶測で書いているだけなので、鵜呑みにしないでください。また、文章のまとまりが無く、カタカナが多いのは、素人だからです。そして、こんな面倒なブログはもう書かない)

「俺がガンダムだ」(ダンダムOO)

(*´ω`*)モキュ

 

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2020年10月10日 (土)

「一律の昇給が無くなると何がどう変わるの?」。まぁ、そうだよなぁ。

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一律の昇給が無くなると何がどう変わるの?と思ったときに読む話
https://blogos.com/article/489787/
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本社の花形事業部に配属された人間も、地方の営業所に配属された人間も、等しく勤続年数に応じて昇給していく。言い換えるなら、一律の昇給というのは、日本型組織を安定させるストッパーのようなものだったんです。

それを見直すのであれば「君は地方の営業所に配属するから組織への貢献度も少ないし昇給額も少ないのはしょうがないよね」というのを納得させるロジックが必要となるわけです。

面白いなぁ。少し感想です。

日本は、年功序列と終身雇用と言われているが、それよりも滅私奉公が重要なのだろう。
年功序列と終身雇用が、実質的に壊れていたとしても、それを認めると滅私奉公が機能しなくなる。
滅私奉公が機能不全になると、日本の労働環境は崩壊するのではないか。
日本型雇用とは、年功序列と終身雇用の代わりに、滅私奉公が求められることが、ベースになっていると思う。

上記の文章をすこし補足するなら、花形ではない地方の営業所に配属されたとしても、年功序列があるから将来は豊かになると考えることができた。つまり、後払いシステムだ。
滅私奉公が機能するのは、年功序列と終身雇用という後払いシステムがあるからだと思う。

後払いシステムが無くなるのなら、即金で支払えとなると思うのだが、はてさてどうなるのか。
最近、話題になっているジョブ型も、よく見ると、ベースとなる滅私奉公は頑強であり、そして後払いシステムになっていることに気づくと思う。
会社に依存している雇用システムなのだから、本質的にはメンバーシップ型雇用から何も変わってはいない。

菅政権が始動して、色々な経済政策が出てきているようだが、少し思うところがある。その辺りのことを書きたいのだが、なかなか素人には難しい。う~ん、頑張って書くか。

(*´ω`*)モキュ

 

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2020年10月 3日 (土)

「菅首相が掲げる「自助」「共助」「公助」の本当の意味」。十人十色。

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菅首相が掲げる「自助」「共助」「公助」の本当の意味
https://diamond.jp/articles/-/248616
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すこし感想です。

菅総理は自民党総裁選の時から自らの政策理念として「自助・共助・公助」を掲げており、これに対して野党は「まず自助というのは政府の役割を放棄しているに等しい」と批判している。筆者はその批判はかなり的外れなものであると考えている。

色々な人が、「自助・共助・公助」について述べています。内容は、それぞれ違います。
そして、これは解釈の仕方で、どうにでもなるので、正解は無いと思っています。
書き手が、どのように説得するかではなく、読み手が、どのように解釈するかだと思っています。

「自助・共助・公助」は小さい政府を表していると言っている人がいたので、私はその考え方に賛同しています。
なぜなら、自己責任論が話題になっているときに、自民党が積極的に行動した記憶がないからだ。

「自助・共助・公助」、実はこの言葉はずいぶん以前から使われており、特に菅総理が新しく言いだしたわけではない。特に社会保障分野においては「自助・互助・共助・公助」として4つに分けるのが一般的だ。これについては年金、介護、医療等々、様々な分野でこうした区分けによる考え方が存在するが、筆者が関心を持っている年金分野では主に「老後の生活を支える手段及び考え方」として、この4つの“助”が使われている。

数年前(?)だろうか、社会保障の分野で「自助・互助・共助・公助」という言葉がでてきた。
従来の「自助・共助・公助」に「互助」が足されていた。
これは、地域での助け合いを明確にするために、互助という分類を敢えて追加したように思える。
それまでは、地域の助け合いは、共助に属していると思っていた。
そのため、古くからある自民党が言っている「自助・共助・公助」には「互助」が無いのだと思う。

そもそも公的年金制度が出来たのはそんなに大昔のことではない。現在の厚生年金法の前身は戦時中の1942年6月に施行された「労働者年金保険法」だが、最初は民間企業で現業に従事する男性が対象であった。その後、女性や事務系の労働者にも適用が拡大されたのは1944年であるからほぼ終戦の頃といってもいい。さらに国民年金法によって1961年に国民年金がスタートし、現在の国民皆年金制度となった。

戦争の費用のために年金の制度が作られたと、何かで見た気がする。
42年や44年は、第二次世界大戦の時期だ。(1942と言えば、シューティングゲーム。懐かしい)
終戦は1945年8月だ。

公的年金が「公助」だと勘違いしている人もいるが、それは少し違う。「公助」というのは、そういった助け合いの仕組みからも漏れてしまった人たちを最後に救うための手段であり、言わばセーフティーネットの役割である。1つの例を挙げれば「生活保護制度」などがこれにあたる。「共助」である公的年金制度は、そのメリットを享受する人たちが互いにその費用を負担し合うのが基本である。すなわち公的年金の本質は「保険」であるから、保険料を払った人だけが年金を受給する権利があるのが当然なのだ。よく言われるのは「公的年金」の役割は“防貧”、すなわち年をとって働けなくなった時に収入がなくなって貧困に陥ることを防ぐのが最大の目的であるとされる。

社会保険について少し調べれば、年金を共助というのは、語弊があることが分かる。
 年金は保険料だけでなく税金も投入されていること。
 強制加入であること。
 給付・反対給付均等の原則が違うこと。
年金は、公助が補っている部分があるため、公助とも言える。
もちろん、共助とも言るし、筆者の説明が間違っているわけではない。そのような説明の仕方もあると思う。

純粋に共助を考えるならば、民間保険をイメージしたほうが早い。
ちなみに、労働組合は互助らしい。

そもそも人が生きて生活を営む上においては、まず自らが働くことが第一であるのは言うまでもないからだ。したがって最も大事なことは誰もが働ける内は、そして働く意思があれば長く働くことができ、しかも満足できる報酬を得ることができるようにすることである。そのために大切なことは経済が成長し、企業が収益を上げられるようにすることが重要だ。すなわち「自助」という言葉の裏に隠された重要なキーワードは「経済の成長」なのである。デジタル化の推進も規制改革もそのための手段であるに過ぎない。

「自助」を否定する人は、ほとんどいないと思う。
問題は「自助=自己責任論」の蔓延である。
就職氷河期世代は、自己責任論のもとに、非正規労働に耐え、もしくはブラック企業に耐え、そして、非正規労働者ゆえに、職業形成が進まず、低賃金による家族形成や資産形成が進まず、そんな人達が、今更、自助と言われて、何を思うのか。

時間というものは残酷である。職業形成できなかった非正規労働者が、高齢になって出来る仕事などあるはずがない。そんな労働者が、自助を否定して、公助を望むことが、そんなにおかしいことか。
結局、日本が低い能力の人材で溢れかえっているのは、政府の自己責任であり、政府が自助努力を怠っていたからだろう。
そして、そんな政治家や官僚を許容している国民の自己責任であり、国民が自助努力を怠っていたからだろう。

最近、ベーシックインカムの話題をよく見るが、月7万円の生活保障で、生活保護が無くなり、健康保険も全額負担になるような話しがある。
障害者のなかには生活保護を受給している人もいると思う。
そんな、障害者が月7万円で、医療費も全額負担になったら、どうやって生活するのか。
ほとんどの障害者は、自助ではなく、始めから、共助や公助を前提としているはずだ。
健康で文化的な最低限度の生活には、ほど遠い。

もしも、自助を肯定するのなら、無人島でひとりで暮してみるべきだ。
社会のなかのインフラ自体が、そもそも広い意味での共助である。
そして、支払い能力があるのに、税金や保険料を低くしようとする輩は、共助に乗っかるフリーライダーだと思っている。
自助よりも、まずは、そんなフリーライダーへの支払いを求めるべきだ。

自助を言われたときは、共助や公助への負担の公平を訴えればいい。おそらく嫌な顔をする人達がいるはずだから。

繰返しになるが、色々な人が「自助・共助・公助」について述べている。そして、それが間違っているとは思わない。

(憶測で書いている部分もあるので、間違っていたときはゴメンナサイ)

(*´ω`*)モキュ

 

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